お茶の稽古を始めて4ヶ月なので、すべてが新しいことばかり。
掛け軸の内容は毎回の楽しみのひとつだ。
まだ今まで、禅語に触れる機会などまったくなかったので、
「へえ、そういうことなのか」ということが多い。
前回は、「紅炉上如一点雪」(紅炉上、一点の雪の如し)
真っ赤に燃え盛った炉の上に、一片の雪が舞い落ちる。
雪は一瞬のうちに解けてしまう。実にはかない。
私たちの命も、雪のようなもので、長い宇宙の時間からみれば、
ほんの一瞬のこと。しかし、このはかない一瞬の存在が、
他の何物にも替えがたい尊い存在なのだ。
この一瞬の存在がなくては、宇宙も存在する意味がない。
掛け軸では、「紅炉」が大きな字で書かれていたけれど、
先生は、「一点雪」がこの句で言いたいことでは
ないだろうかと言われた。
視覚的には、紅白の対比で、「紅炉」が目立つが、
やはり、はかなく消えていく「一点雪」に目を向けたい気がした。
この語の出典の「碧巌録」によると、この句の前に、
「修行僧がイバラの林を通ったとしても」という前提があって、
紅炉上の一点の雪のごとく、まったく痕跡を残さないということ、
どんなに苦しい道を通ってきても、その跡形すら見せないのが、
ほんとうの修行の到達点だということになるらしい。
お茶の席での気持ちとしては、小間の茶室の突上げ窓から
舞い落ちる一片の雪のはかなさに想いを寄せて、
一期一会の「その時」を大事にしたい。