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「海の日」の野尻湖の話の続き。
前回はキャンプサイトでの開寮作業の話をした。2泊3日のうち前半は開寮作業を行なうが、後半は生徒と同じプログラムを父親達も経験するということで、遠泳に挑戦したり、ボートや8人乗りのカッターを漕いだり、カヤックやヨットに乗ることが出来る。 私は今年も去年と同じく遠泳とヨットのプログラムを選択した。遠泳といっても1時間足らずのコースだが、去年は日頃の不摂生が祟って途中でリタイヤした。今年は完泳を目指して、前夜の父親達の懇親会でも深酒は避けたつもり?そのおかげか無事完泳できた。その夜の懇親会では調子に乗って、来年は野尻湖でトライアスロンに挑戦しようと言って祝杯を揚げたようなかすかな記憶がある。誰も思えてないといいのだが。 翌日はヨットに乗った。学生時代にバンクーバーで何も知らずに1人乗りのヨットに乗って、風を偶然ではあるがうまく受けて波を切るように走り出した時の感覚はずっと記憶に残っていた。と同時にワイルドジャイブであっという間に沈した苦い思い出も残っている。社会人になってほとんどヨットに乗る機会に恵まれなかったが、野尻湖に毎年来るようになって、年に1度は乗っている。そんな程度であるから、お恥ずかしい話、未だにジャイブはまともに出来ないでいる。 7月18日「海の日」の朝日新聞の天声人語にヨットの話が出ている。その中で取り上げられている雨宮伊作さんが、今回の開寮作業に参加して居られた雨宮さんご本人であることを帰りのバスの中で知った。風がほとんどなく、たまに吹いても風向きが一定しない状況であたふたしていた私のヨットの横で「風がないですねえ。」と声を掛けて頂いたのを思い出すと冷や汗が出る。 自然に対する態度は、まったく同感なので、その天声人語をそのまま、転載させていただく。 朝日新聞 2005年7月18日 天声人語 夏休みの始まりを告げる特別の儀式がある。湖のほとりに降りて行き、片手をそっと湖水につけるのだ。児童文学の名作「ツバメ号とアマゾン号」シリーズを書いたアーサー・サンサムの若き日の回想である。 英国の湖水地方などを舞台に、休暇中のヨットの冒険を描いた彼の作品は、世界各地で帆船好きの子供たちを生んだ。船乗りを養成する独立行政法人航海訓練所の雨宮伊作さん(47)もその一人だ。 ランサムの世界にひかれて東京商船大学に学び、練習帆船勤務を生きがいに、多くの実習生を育ててきた。2000年ミレニアム記念の北米練習船レースでは、1等航海士として乗り込んだ海王丸が、世界の強豪を抑えて1位に輝いている。 なぜ、この時代に帆船で実習するのだろうか。雨宮さんは言う。「風がなければ帆船は動きません。味方にすれば快適だが、敵に回すと命さえ失う大自然の脅威を前に、いかに力を合わせるかを学ぶのです。」2カ月に及ぶ遠洋航海が終わるとき「実習生の目は輝き、やさしくなり、すこし大人びます。」 ヨットの本場英国では、青少年教育として訓練船が活用されている。ランサム作品で最も緊張感あふれる「海へ出るつもりじゃなかった」は、主人公の4人兄弟が、霧と嵐の中、漂流し始めた帆船を操って英国からオランダまで北海を横断する話だった。危機を乗り切ることで彼らは大きく成長する。 帆船乗りの世界には「帆が教える」という言葉があるという。自然を忘れ、効率ばかりが優先される時代に「帆が教える」ものは多いはずだ。 #
by makodaira
| 2005-07-22 01:18
| オフタイム
「海の日」を野尻湖畔で過ごすようになって数年が経つ。私の娘が通う学校のキャンプサイトが野尻湖畔にあり、毎年「海の日」のあたりにその開寮作業が行なわれ、その手伝いを有志の父親たちと一緒にやっている。自然の中で2泊3日を過ごすことで、自然のさまざまな表情に触れることができ、なによりのリフレッシュとなっている。刻々と色がうつろう夕刻などは言葉を失う。
私が建築設計事務所をやっている関係で、開寮作業での担当は営繕関係をやることになる。普段は大工道具とはまったく縁のないさまざまな職業の父親達と一緒になって、日曜大工のレベルをはるかに超える作業をしてきた。2年がかりで、メインホールの外壁の張替え作業を完成させた。 冬はキャンプサイトがすっぽり雪に埋まってしまう。道路の除雪作業での雪の溜まり場になり、その圧力でボロボロになっていたキャンプサイトの入口の門塀を2年前に新しいデザインで作り直した。 去年はその横に、銘板を取り付けた門柱を建てた。門塀とこの門柱はいずれも長さ4mの柱材のみを使用して作った。木材といえども重量があり、傾斜地での運搬には汗だくになった。 ここまでくると学校の先生達も普通なら建設業者に発注するようなものも、お父さん達に出来るのではないかと父親パワーを過大に評価してくださり、老朽化していたカッター桟橋のすのこ板の張替もやってみようということになってしまった。 長さ30m以上あるカッター桟橋も、水上の細い梁の上に乗りながらの現場合わせの作業だったが、玄人はだしの上々の仕上がりとなった。去年は、この桟橋と門柱と外壁の張替の作業を同時進行で行い、自分で言うのもへんな話だが、素人集団ながら短い作業時間でよくこれだけのことが出来たと感心する。普段デスクワークをしている父親の中には、これらの作業通じて物づくりの充実感に目覚めて「職業を間違えたかな」なんて言い出す人も現れた。 今年は大きな作品は作らなかったが、下駄箱を直したり、洗面所にすのこを敷いたり、テラスのコンクリートを補修したりとか、少しはキャンプサイトに貢献できたかなと密かな満足感を持って帰京した。 #
by makodaira
| 2005-07-19 22:47
| オフタイム
私が[建築]をめざすきっかけとなった丹下健三氏は、今年の3月22日に91歳で逝去された。ご冥福をお祈りいたします。一度もお会いする機会はなかったが、やはり常に多大な影響を受けた一人といえる。
1973年、都市計画と建築設計の違いもわからず京都大学の建築学科に入学した。「東京計画1960」の模型写真に惹かれたのは、造形的な美しさに負うところが大きかったように思う。大学での設計課題でも、丹下健三氏設計の広島平和記念陳列館の影響を受けた作品を提出したことを思い出す。建築学科の講座は、当時から建築計画、建築史、構造、環境工学、施工等多岐にわたるが、私はその中から「建築意匠」の講座に進んだ。その担当教授が、私が「建築家」を目指すきっかけとなった増田友也教授である。 #
by makodaira
| 2005-07-14 01:21
| プロフィール
私が建築を明確にめざしたのは、高校3年の冬であった。大学受験の直前、どこを受験するかという現実的な問題であった。もともと理系の科目が好きだったし、小さい頃からプラモデルを作ったり、学校の夏休みの工作にいろいろ凝った大作を作ったことなどはあったが、建築という分野を意識したことはなかった。高校は大阪府立北野高等学校に進学し、高校1年の時の遠足は、大阪万博であった。その当時は理系がもてはやされ、建築の将来も洋々という時期であった。それでも、まだ、医者になるとか湯川秀樹博士に続いて、ノーベル物理学賞をめざすほうが、わかりやすかった。北野高等学校からは当時、毎年120人ほど京都大学に合格者を出していたこともあり、京都大学には親近感があった。京都大学の理学部で物理か化学を研究したいという考えは漠然とあった。決めかねている時に出合ったのが、高校3年生の現代国語の教科書に掲載されていた丹下健三氏の「東京計画1960」の模型写真であり、その前に蝶ネクタイを締めて立っていた丹下健三氏であった。教科書に掲載されていた文章はもう覚えていないが、写真は鮮明に思い出せる。
こんな夢のある職業があるのだと、一気に建築をめざすことになった。 #
by makodaira
| 2005-07-13 01:35
| プロフィール
1954年 岐阜高山に生まれる
1973年 大阪府立北野高等学校卒業 1977年 京都大学工学部建築学科卒業 1977年 同大学院(増田研究室)進学 1979年 京都大学大学院修士課程修了 1979年 ㈱設計事務所ゲンプラン東京事務所 1986年 都立品川技術専門校講師 現在に至る 1988年 ㈱古平建築研究所設立 1993年 現代建築家20人展 1993年 六陵会展 1993年 高岡都市美景観賞最優秀賞受賞 1996年 オゾンリビング展 1997年 汽水域展 1997年 富山県建築賞受賞 1999年 高岡都市美景観賞受賞 2002年 TDB自由が丘の建築家展 #
by makodaira
| 2005-06-21 18:43
| プロフィール
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